暴力団ミニ講座

21) 刺青(いれずみ)
「刺青(いれずみ)」とは、人の肌に墨その他の色を針で刺し、絵や文字、文様などを彫ることをいいますが、このような「いれずみ」を「刺青」という文字をあてて呼ぶようになったのは、近々、明治の末頃からのことのようです。肌に刺した墨が青く見えるところから、「刺青」の文字をあてて呼ぶようになったといわれています。

もともと、「刺青」の風習は世界中のどの民族にもあるようですが、その起りは、古代民族が自分の体に染料を塗って装飾としていたものが、次第に形を変えて「刺青」の風習となったものといわれており、その点は世界共通のようです。
また、「刺青」には刑罰としてのものもあります。
我が国では、5世紀前半頃、目の付近に墨を刺す風習があったことや、「刺青」の刑罰があったことが日本書紀に記録されていますが、その頃は「刺青」のことを「黥(げい)」と呼んでいたようです。「黥」とは身体の「斑(まだら)」を意味しているようです。
その後、こうした「黥」の風習はなくなり、「黥刑」も行われなくなっていますが、江戸初期になって京阪神地方のいわゆる遊里において、男女間の心中立として、親指の付根と手の甲の中間に墨を刺すことが流行し、それを「入ぼくろ」と呼んだようです。
この「入ぼくろ」の風習が江戸に伝わり、それから次第に腕、肩、背中等に文字を彫るようになり、宝歴年間(1751年頃)になって全身に絵画的なものが彫られるようになったといわれていますが、その頃には、専門の彫り師も登場したようです。
この頃の「刺青」は「文身(ぶんしん〜文は模様の意)」あるいは、「ほりもの」と呼ばれ、遊里のみならず、鳶職、大工、佐官等の職人や商人などの間で、さらには、博徒、的屋などのやくざの世界で盛んに行われるようになったようです。
「刺青」の絵柄も、牡丹(ぼたん)、唐獅子(からじし)、般若(はんにゃ)、金太郎、花和尚、地雷也(じらいや)、不動明王など、浮世絵にも劣らない精巧多彩なものが彫られるようになりましたが、やくざの世界では、この「刺青」を脅しやゆすり、たかりに悪用するようになり、その一方では、この「刺青」の風習が彼らの社会では伝統的なものともなって、現在の暴力団社会に受け継がれてきています。ですから、今では、暴力団と「刺青」は切っても切れないものとなっています。

このように、暴力団社会の「刺青」には、人に威嚇を与える意味合のほかに、もう一つ、苦痛を我慢する「男」の見栄を張る意味もあって、大きなものを入れているほど、暴力団社会では幅がきき虚栄と自己顕示欲を示すものとなっています。
「刺青」を彫る方法としては、手彫りと機械彫りとがあるようですが、手彫で背中に彫るのに6ヶ月から1年位、全身を彫るのに2年から3年位はかかるといわれていますが、その間、発熱を伴う大変な痛みと闘わねばならないわけです。
なお、江戸時代の享保5年(1720年)に刑罰としての「刺青」が復活したといわれていますが、この刑罰としての「刺青」については、「入墨」、「刺文」の文字を用い区別したようです。


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