38) 二代目侠道会暴力団二代目侠道会は、広島県尾道市に主たる事務所を置き、平成12年末現在における構成員(組員)数は約180名、準構成員(準組員)数は約300名といわれ、また、その勢力範囲は、広島県、岡山県、香川県など6県に及び、中国地方では四代目共政会に次ぐ勢力を有する暴力団です。
この二代目侠道会の沿革を辿ってみますと、戦後間もなく高橋徳次郎が、広島県尾道市において結成した暴力団「高橋組」がそもそもの始りとなっています。
高橋徳次郎は、戦後の社会経済の混乱期に乗じ、パチンコ店の景品買いや宣伝事業などによって大きな財を築きました。そして、今では考えられもしないことですが、その資力をバックにして、昭和26年4月の尾道市議会議員選挙に立候補し当選しました。
その後高橋徳次郎は、表社会での政治家の顔と裏社会での暴力団組長としての顔を巧みに使い分け、尾道市の政財界を牛耳るまでになったといわれています。
そして、昭和30年12月には、遂に、広島県議会議員に当選し、連続3期も議員を続けましたが、昭和42年12月、野球賭博事件で高橋徳次郎本人及び高橋組主要幹部が捜査当局に逮捕されたため、同人は県議会議員を失脚し、同時に、高橋組は壊滅状態に陥りました。
ところが、昭和44年1月、高橋徳次郎の右腕ともいわれていた森田幸吉が、服役していた刑務所を出所して後、高橋組の残党を中心に尾道市周辺の暴力団員を糾合して、「侠道会」を結成、自らはその初代会長に就任しました。
侠道会を結成した森田幸吉は、会の資金源を確保するため、縄張りの拡大を企図して、昭和45年4月に高知県高知市に「高知支部」を置いたのを手はじめに、同年5月には愛媛県今治市に「今治支部」を、昭和56年9月には、香川県高松市に「新侠会」を結成し、さらに、昭和62年には、熊本県熊本市の暴力団「熊本同志会」を傘下に収めるなど、県外にその勢力を扶植して行きました。
こうした縄張りの拡大方策は、当然のことながら縄張りを浸食された地元暴力団と対立することとなり、昭和45年9月の高松市における数次にわたる対立抗争事件、昭和46年6月の広島県福山市と尾道市における数次にわたる対立抗争事件などを引き起し、武闘派暴力団として全国にその名を知られるようになりました。
その一方で、森田幸吉は、反山口組の親睦組織として、昭和45年に発足した「関西二十日会」の中心となって活動し、さらに、平成元年7月には、自らの提案によって新しく発足した「西日本二十日会」に拠って、お互の共存共栄を図るべく尽力したともいわれています。
しかしながら、病気がちであった森田幸吉は、平成元年10月跡目を同会副会長で実弟の森田和雄に譲って間もなく、同年11月に死亡しています。
新会長となった森田和雄は、「盃直し」などの体制固めを行い、森田幸吉の一周忌にあたる平成2年12月に会の名称を「二代目侠道会」に改称、以来現在に至っています。
二代目侠道会は、森田和雄の下で対外的には、平成8年2月に発足した中国地方の暴力団の親睦会「五者会」に加盟するなど、山口組をはじめ他団体との共存共栄を基本として、組織の維持拡大に努めているといわれていますが、平成10年7月には、愛媛県松山市内で資金源争いによる対立抗争事件を引き起し、相手方の攻撃に対する報復として、岡山県内において、手榴弾を投てきする2件の事件を敢行し世間を騒がすなど、いざ縄張りを死守するためには、手段を選ばない、暴力団特有の本性を露呈するなどしてきています。
なお、二代目侠道会も現在、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律に基づき、広島県公安委員会から「指定暴力団」に指定されています。
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