暴力団ミニ講座

40) 三代目浅野組
 三代目浅野組は、岡山県笠岡市に主たる事務所を置く暴力団で、岡山県と広島県をその勢力範囲としており、平成13年末現在で、構成員(組員)約130名、準構成員(準組員)約130名を擁しているといわれています。

 三代目浅野組の沿革を辿ってみますと、昭和20年ごろ、大山国男が、現在の笠岡市を本拠として結成した博徒、「大山一家」がその起源となっています。

 大山国男は、昭和27年に大山一家を解散し引退しましたが、当時その幹部であった浅野眞一が、同年4月、新たに「浅野組」を結成し、初代組長に就任しました。

 浅野眞一は、組織結成後、次第に勢力を拡大しつつあった神戸市に本拠を置く広域暴力団山口組に対抗する地元暴力団としての生き残りを策し、昭和45年結成された反山口組親睦組織、関西二十日会にも参加し、その中心として活動するなど、自己組織の維持と勢力の拡大に腐心してきましたが、昭和54年8月に病死しています。

 その間、昭和46年6月には、広島県福山市や尾道市を舞台に、縄張りが隣接する「侠道会」との対立抗争事件を引き起したりしています。

 浅野眞一の死後、昭和54年10月、当時、初代浅野組の若頭であった日田義男が二代目浅野組組長を襲名しましたが、同組長は、組長としての統率力に難があったといわれ、昭和58年8月、病気を理由として引退しました。

 その後釜として、昭和58年9月に三代目浅野組組長を襲名したのが、二代目浅野組若頭、串田芳明で、以来現在に及んでいます。

 串田芳明も、反山口組を旗印に、組長襲名当時既に加盟していた関西二十日会や、その後平成元年7月に関西二十日会を母体として、再結成された反山口組親睦組織、西日本二十日会と協調しつつ、組織の維持と勢力の拡大に専念し、平成2年3月には、東京に本拠を置く広域暴力団稲川会理事長稲川土肥と五分の舎弟交盃を行ったといわれており、稲川会との友好関係を結ぶことによる組織基盤の強化を企図した拳にも出ています。

 ところが、西日本二十日会は、平成3年1月、反山口組の急先鋒であった、広島市に本拠を置く共政会が、当時対立抗争中であった山口組と和解し、同会を脱退したことを契機として瓦解、また、平成8年9月に、兄弟分である稲川会会長稲川土肥が山口組長渡邊芳則と兄弟縁組をしたことにより、それまでの反山口組一辺倒から全方位外交へと路線変更を余儀なくされてもいるようです。

 なおまた、串田芳明は、平成8年2月に結成された、中国地区に本拠を置く地元暴力団の友誼組織「五者会」に参加し、地元暴力団との共存共栄にも努めているといわれています。

 三代目浅野組は、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律に基づき、岡山県公安委員会から指定暴力団に指定されています。


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